埼玉県さいたま市岩槻区大字慈恩寺にある「慈恩寺」です。
ここには、西遊記で有名な三蔵法師の遺骨が奉安されています。
2015年11月28日。良く晴れた土曜の午後に、ちょっと立ち寄ってみました。
えーと、話が長くなりそうです(^^;
「三蔵法師」って「水戸黄門」同様に、個人名じゃないんですよね。
「水戸黄門」から始めると、、、終わらなくなるので、やめておきます。
以下、ウィキペディアからの受け売りです。
・三蔵法師
仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶(法師)のこと。
また転じて訳経僧を指していうようになった。
最も有名な三蔵法師は、唐代の僧・玄奘三蔵である。
・三蔵
律蔵:僧伽(僧団)規則・道徳・生活様相などをまとめたもの
経蔵:釈迦の説いたとされる教えをまとめたもの
論蔵:上記の注釈、解釈などを集めたもの
・訳経僧
訳経僧(やっきょうそう)は経典の翻訳に従事する僧。
特に、中国においてサンスクリットの経典を漢訳する僧をさすことが多い。
・玄奘
玄奘(げんじょう、602年 - 664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧。
玄奘は戒名であり、俗名は陳・(チンイ)。諡は大遍覚で、尊称は法師、三蔵など。
629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。
以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。
また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなった。
・玄奘の遺骨
日中戦争当時の、1942年(昭和17年)に、南京市の中華門外にある雨花台で、旧日本軍が玄奘の墓を発見した。
それは、縦59cm横78cm高さ57cmの石槨で、中には縦51cm横51cm高さ30cmの石棺が納められていた。
石棺の内部には、北宋代の1027年(天聖5年)と明の1386年(洪武19年)の葬誌が彫られていた。
石棺内に納められていたのは、頭骨であり、その他に多数の副葬品も見つかった。
この玄奘の霊骨の扱いには関しては、日中で応酬を経た後、分骨することで決着を見た。
以下、慈恩寺のサイトからの抜粋です。
来日した霊骨は当初、仏教連合会の置かれていた東京、芝の増上寺に安置
第二次世界大戦末期、埼玉県蕨市の三学院に疎開し仮安置
三学院も東京に近く、安全が計り難いということで、慈恩寺に再度仮奉安
戦後、正式に慈恩寺に奉安が決定
東部鉄道から寄進を受け、花崗岩十三重六十尺の霊骨塔を建設
・玄奘の遺骨の分骨
1955年(昭和30年)に日台友好のため台湾に分骨され、現在は日月潭の玄奘寺に奉安されている。
1981年(昭和56年)には、玄奘の属する法相宗の薬師寺にも分骨され、現在は境内の玄奘三蔵院に奉安されている。
なんだか「レイダース 失われたアーク《聖櫃》」みたいなお話です。
とにかく、わが埼玉県のお寺から、台湾のお寺やあの薬師寺に「分けてあげた」のですね。
さて、そんなわけで。
銀杏の黄葉が見事な慈恩寺は、本堂が工事中。
お線香の点火用に、懐かしい物が実用で置いてありました。
「穴があいていて、レンコンみたいだからレンタン?」
「じゃなくて練炭、石炭の粉を練って成形してあるからだと思うよ」
玄奘三蔵の霊骨塔は、慈恩寺から田んぼ道を数分歩いたところです。
中国風の門に、立派な塔や銅像。
敷地内には、何やら雑然とした古民家カフェという感じの建物。
見ると「茶寮 余白坊」とあります。
ピザの店で会員制で予約制で木曜日のみ営業とのこと。
http://www.geocities.jp/yohakubo/
はぁ…?
ここまで来たついでに、近くの岩槻城址公園も行ってみました。
私は、もしかしたら中学生以来かも。
残念ながら、岩槻城の遺構はほとんどありません。
数か所の移築を経て、戻ってきた黒門がある程度です。
とは言え、子どもたちの遊ぶ広場と散策路が分かれていて、良い感じです。
特急電車1720系先頭車(1726) きぬ。
東武日光線の、通称ロマンスカー。
昭和35年から平成3年まで使われていたそうです。
土日祝日、午前10時から午後3時(8月は午後4時)まで公開。
この時期、日が短くて参りますねぇ。