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2023年10月15日 (日)

GSR250Sで埼玉県熊谷市「幻の新川村」へ

2023年10月23日(木)です。

かつて埼玉県大里郡に「新川村」という村があったそうで。
江戸時代から荒川の舟運で栄え、明治以降は養蚕がさかんだったそうです。
その後、大水の被害が多いことから、昭和47年頃に住民がすべて転居し消滅したそうです。

こちらのホームページからの情報です。
http://shinkawa-muse.net/
川と森と人々の暮らし
ようこそ幻の村
新川エコミュージアムへ
トップページでは「Adobe Flash Player のサポートは終了しました。」と表示。
・コピーライトは「立正大学の後藤研究室」
・サイト作成費用は「平成18年度財団法人地域総合整備財団および熊谷市役所の補助」
・運営は「立正大学/地球環境科学部/後藤研究室」と「NPO法人GISパートナーシップ」
だそうです。
無断転載禁止ですが、失礼して、地図のページのトップだけキャプチャさせて頂きます。
Shinkawa_202310

この地図のプリントを持って、GSR250Sで出発です。
まずは、埼玉県鴻巣市の荒川河川敷「吹上コスモス畑」をチェック。
土手上の道は自動車や二輪車は通行禁止です。
部分的に横断できる場所がありますので、GSR250Sで上がってみます。
20231012_01

黄色いコスモスは満開。
赤ピンク白は、まだこれからのようです。
20231012_02

さて「旧新川村」すぐそばまで来ました。
荒川土手の外側にある「熊谷市久下公民館」の駐車場です。
20231012_03

大きな案内看板。
100年前の久下新川村は舟運と養蚕で栄えました!!
(地図の場所は、この先の土手をおりた旧屋敷森一帯です。)
平成17年12月 寄贈:伊田テクノス株式会社
なるほど、先のサイトの立ち上げ時期と同じ頃に作られたのですね。
20231012_04

土手を超えて、T字路を左に進みます。
幅2メートルほどの簡易舗装の道が続きます。
雑草が茂っていたり、畑があったり。
少し広くなった場所に出ました。
20231012_05

看板が立っています。
傷んではいますが判読可能なので、全文転記します。
読みやすいように、空白行を追加しました。
20231012_06
 ようこそ 幻の村新川へ
新川村は戦後間もなく廃村になりましたが、
江戸時代のはじめの頃から三百年の間、五百人余の
人々がここに暮らし、舟運や養蚕の村として栄えました。
河岸には廻船問屋や筏問屋、塩問屋、油問屋が
軒を並べ、
江戸浅草と武州新川を結ぶ荒川を
帆掛け舟が往復し、荷が着く日には大八車や馬を
引く人達で賑わいました。又秩父山中から流した
木材は筏職人たちが筏舟にして江戸へと運びました。

明治十六年、鉄道の開通で舟運は姿を消しましたが、
度々この地を襲う大水は豊かな土壌をもたらし
良質な桑が特産となり、養蚕が盛んとなりました。

やがて絹からナイロンなどの化学繊維の時代となり
養蚕も廃れると、大水に追われるように人々は
この新川村を去って行きました。

荒川の瀬替えとともに生まれ、文明の進化により
滅びた村新川。
私たちはここを幻の村・新川と呼びます。
今、この地は荒川の遊水地であり、野鳥や野生の
動物達の棲家となり、ここを愛する人たちの
こころのふるさととして息づいています。

  新川菜園村と子ども遊びの森

古びたフェンスの奥には「新川菜園村」の文字も見えます。
屋根の下にはテーブルなどもあり、現役で使われているようです。
フェンスには、朽ちた看板が三枚立てかけてあります。
先の公民館駐車場と同じもの、先のホームページ掲載の案内図。
手書きのものは、すっかり傷んでいます。
「子ども・・森は・・・遊びましょう」などの文字が見えます。
20231012_07

ここにGSR250Sを置いて、あとは歩くことにします。
簡易舗装の一本道ですが、舗装されていない側道が何か所もあります。
おっ。
わだちの先にいるのは、タヌキのようです。
20231012_08

大きな木が茂った区画。
手前の畑はトラクターでキレイに耕されています。
20231012_09

ここで、電動アシスト三輪自転車のおばあちゃんに遭遇。
20231012_10

通りすがりに挨拶すると「調査ですか?」と声をかけて下さり、しばらく立ち話。
大きな木の場所は、先のホームページの案内図の「山岸油屋んち・大尽御殿」とのこと。
以下、話した内容を箇条書きにします。
・ここには、近隣自治体の見学やテレビの取材も来たりする
(お年を考えると、何年前のことかは分かりません)
・家にあった昔の本には「武蔵国熊谷県忍領新川村」と書かれていた
(これはちょっと違うかも知れません)
・荒川はよく氾濫し、昭和37年頃には、年に3~4回水が出た
・水かさは「二階から手が洗えた」というほど
・氾濫した水が良い土を運んでくるおかげで、作物は良く育った
・土手の向こう側あたりは、作物の育ちが悪く「地獄新田」と言われた
・荒川には多くの舟が行き来していた
・荒川の舟は、陸からひもで引いて川を上った
・親せきは、泊まり込みの舟の作業者向けに「貸し布団」で儲かった
・土手の道は、行き交う大八車の車輪の跡がつき「わがた(輪形)」と呼ばれていた
・荒川との間は、今は草に覆われているが、以前は一面の桑畑だった
・村は経済的に豊かで、子どもを公務員や教員にした家が多かった
・度重なる氾濫で転居したが、それぞれの家の畑に近い「久下」や反対側の地域に別れた
・残った家の人は、転居先から畑仕事に来る人と、お茶飲み話をするのが楽しみだった
・今でもこうして農作業に来る人は結構多い
などなど。
自転車のかごの中身は、良い香りの「青じそ」
直売所に出すのだそうです。
「少し持って行って」とのことで、それでは遠慮なく。
少しどころか、持っていたレジ袋にどさっと一杯。
これをぶら下げて歩くことになりました。
「青じそ」の食べ方なんて、刺身のツマか、添え物程度の天ぷらくらいしか思いつきません。
どうしましょう・・・

長くなりましたので、続きは後ほど。

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