記念碑

2018年3月22日 (木)

歩いてきました「早稲田周辺」その3

歩いてきました「早稲田周辺」その3

2018年3月17日(土)の続きです。

「新宿区立漱石山房記念館」に向けて、夏目坂を上ります。
途中に、ベニカナメモチの高い生垣のある大きなマンション。
有島武郎の旧居跡ですって。

道路わきに、建売住宅のカンバンがありました。
元は一軒のお宅を三分割したのでしょう。
土地15坪に三階建て22坪で、、、7,000万円!
近所の奥さんと立ち話。
この辺は静かで暮らしやすいですよ。幼稚園や学校も近いし。
ここに住めば早稲田に入れるのなら良いですねーと冗談。
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さて到着です。
隣接の「新宿区立漱石公園」の入り口わきに、銅像がありました。
富永直樹作「漱石胸像」平成3年建立。
銅像の向かって右には「則天去私」とあります。
ネット上の辞書では、以下の通り。
 天に則り私を去るの意。
 夏目漱石が晩年に文学・人生の理想とした境地。
 自我の超克を自然の道理に従って生きることに求めようとしたもの。
 漱石自身の造語。

裏面の碑文は、以下の通りです。
                  

 漱石は慶応3年(一八六七)二月九日、
この近くの江戸牛込馬場下横町(現・新
宿区喜久井町1)に生まれた。明治四十
年九月にこの地に住み、「三四郎」「それか
ら」「門」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」な
どを発表、大正五年(一九一六)十二月
九日、数え年五十歳で死去した。
 この終焉の「漱石山房」跡地に漱石の
胸像を建立し、その偉大な文業を、永遠
に称えるものである。
 なお、表の漱石の自筆の俳句は
「ひとよりも空 語よりも黙
  肩に来て人なつかしや赤蜻蛉」
と読む。

 平成三年三月  新 宿 区


「新宿区立漱石山房記念館」の外観やパネルです。
昨年の9月24日に開館したばかりで、ピカピカです。
内部は撮影禁止。
一階の無料スペースには、カフェやグッズ売店もあります。
有料エリアの観覧料は、一般300円。
展示の目玉は、漱石の書斎の再現展示。
今日あちこちでチェックした「硝子戸の中」が、まさにここなのですか。
建物外観の再現もありますが、中途半端で、なくても良いくらいに感じました。
周囲にバルコニーのある、ちょっと変わった構造の家だったようです。
その他、初版本の展示など。
20180317_10
裏の公園には、夏目家のペットの合同供養塔が復元されていました。
特に「吾輩」の塔という訳ではないようです。

地下鉄で早稲田から飯田橋へ。中央線でお茶の水へ。
今度は、さだまさし。
 「食べかけの檸檬 聖橋から放る」
 「各駅停車の檸檬色が・・・」
駅構内や駅沿いの道は、私の若い頃、40年前の雰囲気が残っています。
画材店「レモン画翠」で、ちょっと買い物。
あの頃は、上階に喫茶室がありましてねぇ。
学校の帰りに、立寄ったものでしたよ。えぇ。
バナジューがうまくてねぇ。
くどくど。じじいの繰り言です。
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中央線で東京駅へ。
丸の内南口の、日本郵政が展開する商業施設KITTE。
屋上から見た東京駅の昼と夜。
夕日に照らされ、惑星タトゥイーンの宇宙港街の屋根みたい。
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その6階の「魚匠 銀平」。
付き出しから楽しく、お造り盛り合わせも新鮮でうまい。

スマホの万歩計は、19,500歩・14.5kmでした。
「レモン画翠」での買い物については、いずれまた。

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2018年3月21日 (水)

歩いてきました「早稲田周辺」その2

2018年3月17日(土)の続きです。

面影橋の停留所から終点の早稲田までは、わずか450メートル。
歩いてもすぐなのですが、せっかくなので。
これで165円を3回で、495円(^^;
私が学生の頃は、この路線は飯田橋まで続いていましたっけ。
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更に話は逸れます(^^;
高田馬場と言えば、赤穂浪士の堀部安兵衛の仇討ですよ。
水稲荷神社の入り口に「堀部堀部武庸加功遺跡之碑」がありました。
新宿区教育委員会の説明文を一部抜粋します。
 赤穂浪士・堀部安兵衛を顕彰する記念碑。
 江戸時代に高田馬場の管理を委託されていた甲州屋の子孫が明治四十三(1910)年に建立。
 当時は、日露戦争後の国家主義の高揚を背景とし「忠臣蔵」の再評価が高まった時代。

せっかくですので、水稲荷神社もお参り。
二宮金次郎の石像があったり。
その先の早稲田通りの交差点そばのお蕎麦屋さん。
入口わきに「高田馬場の跡地」というパネル。
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少し急ぎましょう。
早稲田通り馬場下町交差点の「穴八幡宮」に到着です。
鏡子夫人が、漱石の「虫封じ」にお参りしたという神社です。
他にも、作家の五木寛之の、早稲田大学入学当時のエピソード。
 住むところがなくて、この神社の床下で野宿をして、
 藪蚊と共に「人気のない場所を探す二人連れ」に困った。
そんな話を、エッセイ集で読んだ覚えがあります。
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すぐ隣に「放生寺」が並んでいます。
昔は穴八幡宮と放生寺は、一体だったのですって。
明治元(1868)年の神仏分離令で、別々の神社とお寺に分かれたそうです。

早稲田通りには、タテカンがあったり古本屋が並んでいたり。
私は学生時代は神田で過ごしましたが、良く似た学生街の雰囲気。
小椋佳「春なんだなぁ」なんていう歌を思い出します。
 2017年4月23日(日) 小椋佳「春なんだなあ」
 「学生が自分らの青春に気付かずに」
そうそう。
その時には、気付かないんですよね。
かなりのおっさんの私ですが、それでも今を懐かしく思う日も来るのでしょう。
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お昼は、つい調子に乗って、学生向けの定食屋に入ってしまいました。
トンカツ定食650円。ご飯多すぎです(^^;
高田馬場跡のお寿司屋さんにすれば良かった・・・

やっと着きました「夏目漱石生誕の地」の石碑です。
東京メトロ早稲田駅すぐそばの、やよい軒の脇(^^;
ここからの上り坂は「夏目坂」。
解説文を要約します。
 漱石の「硝子戸の中」によると、名主であった漱石の父、
 夏目小兵衛直克がそう呼んでいたのが広まった、とのこと。
スマホで青空文庫を確認。
「硝子戸の中」
 父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければ
 ならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。
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坂道の途中の「誓閑寺」。
漱石の「硝子戸の中」では「西閑寺」、
「二百十日」で「寒磬寺」として登場するお寺だそうです。
スマホで青空文庫を確認。
どちらの作品でも「竹やぶから鐘の音が聞こえる」と描かれています。
入口に古びた梵鐘がありましたが、、、これがその鐘ではないようです。
なるほどねー。
これら作品の面影は、、、ないこともないですか。

もう一回、続けさせて頂きます。

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2018年3月19日 (月)

歩いてきました「早稲田周辺」

2018年3月17日(土)です。

昨年秋に「新宿区立漱石山房記念館」というのが開館しています。
公式サイトでは、以下の通りです。
 夏目漱石が生まれ育ち、その生涯をとじたまち新宿区に、
 漱石生誕150周年にあたる平成29年9月24日、
 漱石にとって初の本格的記念館が開館しました。

今年1月には、神楽坂や東京理科大学の周辺など、漱石ゆかりの地を歩きました。

また、早稲田と言えば、都電荒川線の西の終点。
東の三ノ輪橋から王子駅前までの区間は、ここ数年でも何回か乗っています。


というわけで。
王子駅前から早稲田まで都電荒川線に乗って。
早稲田周辺の夏目漱石ゆかりの地を歩いてきます。


新しい愛称「さくらトラム」こと「都電荒川線」は、東京に残る唯一の都電。
東の三ノ輪橋から西の早稲田まで、12.2km、30停留場。
JR王子駅前が、ちょうど中間点という感じです。
都電専用路線の部分もありますが、自動車との混合通行も。
王子の飛鳥山下での、一般道です。
都電の前に、自動車が割り込んだりね。
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停留所「鬼子母神前」で途中下車です。
停留所から参道はすぐです。大きなケヤキの並木です。
ロリ系ファッションと言うのでしょうか、そんな外国人の女性がいたり。
名物のススキのミミズクがあったり。
ご朱印も頂きました。
お納めは「お気持ちで」とのことで、それなりに。
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再度都電に乗り、もう一度「面影橋前」で途中下車です。

大昔のフォークソング「面影橋から」なんていうのが、ありまして。
六文銭の及川恒平という方の作詞作曲。
発表年は良く分かりませんが、1971年と書いているサイトがありました。
 「面影橋から天満橋、天満橋から日陰橋」と歌われています。
実在のこの橋がモデルという訳では、ないようです。

NSPの「面影橋」という歌もありました。
ウィキペディアで確認。
1979年3月21日シングル発売。
作詞作曲の天野滋さんは、2005年に亡くなっていたのですね。
こちらでは、こうです。
 「黄昏せまる面影橋に 見送るつもりで来たが
  帰したくなくなって さよならいえない」

かぐや姫の「神田川」も、この辺が舞台なのでしょう。
今は桜並木でキレイですが、私が高校生の頃は、もうねぇ。
桜なんてなかったですし、川自体もかなり汚かったと記憶しています。
そんな、いかにもアレな感じの場所だったのだろうと思います。

どうも前置きが長くなりました。
実際の「面影橋」です。
20180317_03
この通り、何の変哲もない橋。
神田川沿いのソメイヨシノのつぼみは、今にも開きそう。
(帰宅後のニュースでは、この日に靖国神社の開花宣言がありました)
橋のたもとには、太田道灌の「山吹の里」の石碑があります。
セニアカーのおじいさんがいましたので、離れて撮影のみ。
豊島区教育委員会の説明文を一部抜粋します。

 「山吹の里」は、ここ以外にも、荒川区町屋、横浜市六浦、埼玉県越生などの説がある。
 この石碑は、貞享三(1686)年に建立された供養塔を転用したもの。 だそうです。

わが埼玉県の越生梅林では「NHK大河ドラマに太田道灌を」という署名活動がありましたっけ。

なかなか早稲田に着きませんが。
続きは後ほど。

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2018年2月21日 (水)

SR400で吉見周辺散策 その2

さらにマイナースポットです。

まずは「岩窟ホテル」です。
今は閉鎖されています。
ホテルと呼ばれていますが、宿泊施設だったわけではありません。
個人で岩盤をくり抜いて作った、ちょっとした洞窟です。
私が子どもの頃の昭和40年代には、公開されていました。
入場料は、いくらだったのでしょう。
洞窟内部には階段や窓がくり抜かれ、二階から外が見渡せました。
広場には、ブランコやシーソー程度の施設があったと記憶しています。
道路を隔てた向かい側には、今でも売店があります。

次は「松山城跡」入り口です。
昨年2月には、北側から行ってみましたが、南側からの入り口もありました。
駐車場はなく、歩道わきにベンチと案内表示があるだけ。
上って行ってみたかったですが。
ライディングシューズは歩きにくいので、またの機会に。

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少し離れて「電力王福沢桃介生誕の地」という立て札です。
謎の台湾料理「天香味」のすぐそば。
クルマの信号待ちで見かけて、前から気になっていました。

  電力王 福沢桃介
 福沢桃介は、明治元年この戸の岩崎家
に生まれ、同七年に川越に移り住ん
だと言われています。
 桃介は幼いころから聡明で、慶應義
塾に進学後は、福沢諭吉の次女「房」
と結婚し、福沢姓を名乗るようになり
ました。明治二十年に米国留学し、
帰国後は財界で活躍しました。
 桃介は木曽川水源開発を始め、中部
地方から関西を中心に 多くの水力発
電を開発したため「電力王」と呼ばれ
ました。昭和十三年、渋谷の本邸に
て 七十歳で生涯の幕を閉じました。
 昭和六十年には福沢桃介を題材に
したNHKドラマ「春の波涛」
が放映されました。
  平成二十年九月
        吉見町教育委員会

えーと「春の波涛」ですかぁ。
 貞奴の夫である川上音二郎、福澤諭吉の娘婿で「電力王」の異名をとり、
 貞とのロマンスでも知られる福澤桃介、
 芸者時代に貞を水揚げした伊藤博文など幅広いキャラクターが登場したが、
 視聴率では低迷した。
うーん、全く記憶がありません。
あの有名な「貞奴」。伊藤博文が水揚げして、お下がりを娘婿に・・・(^^;

すぐ脇は広い畑。
周囲は農家や民家が点在するばかり。
これといった感慨はありません。

というわけで。
マイナーなスポットの個人的メモでした(^^;

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2018年1月13日 (土)

両国で発見 (0o0) 「徳川家康像」

2018年1月6日(土)「第五回愚者の会」の帰りです。

休館中の江戸東京博物館の裏手の遊歩道です。
寒桜の花の向こうに、銅像を発見。
大きな綾藺笠を被っているので、太田道灌だろうと思ったら。
なんと、徳川家康の像でした。
20180106_11

大きな亀に乗っています。鷹狩の姿だそうです。
へぇ?
鷹狩の様子は、テレビニュースなどで見ることがあります。
左腕に分厚く長い手袋をして、鷹は前腕にとまらせますよね。
この像では、素手のような握りこぶしに、鳥が前向きにとまっています。
鳥の大きさは、鳩くらいでしょうか。


この銅像の製作者は山下恒雄という方だそうです。
ネットで作品を検索してみます。
Yamashita_201801

ははぁ。
私は、このような芸術品について、特に知識もありませんが。
抽象と具象という見方をすれば、抽象的な作風ということでしょうか。


像の碑文を全文転記します。

徳川家康公銅像建立由来

 鷹狩の雄姿で江戸城を望んでいる徳川家康公が始めて、
草深い江戸の地に天正十八年(1590年)に、豊臣秀吉
の命により国替えとなった。
 そして、関ヶ原の戦い後慶長八年(1603年)征夷大
将軍となり江戸に幕府を開き天下普請を大名に命じ、本格的
な都市づくりの大事業を行い、政治の中心地として明治に至
るまでの永き亘って現在の東京の基礎となったことは周知の
事実である。
 社団法人 江戸消防記念会では、このような、江戸開府の
大事業を成し遂げた徳川家康公の偉業を称え、顕彰すべく
銅像建立の計画を練っていたところ、平成五年三月、江戸
東京博物館が両国の地に落成の運びとなるや、徳川家康公
銅像建立機運が一気に盛り上がり記念会創立以来の名誉ある
事業であることから、これを積極的に推進し、東京都をはじめ
関係諸機関に格別のご協力をいただきまして、江戸消防記念会
が主体となって平成六年四月銅像を建立、東京都に寄贈した
ものである。
   

うっひゃー。
私は、語学や文法について、特に深い知識もありませんが。
これはもう、誰でもわかるような、びっくりです。


江戸消防記念会のホームページもチェック。
http://www.edosyoubou.jp/
この銅像の紹介文がありました。
内容は、概ね先の碑文と同じですが、更にアレな表現も。
Edosyubou_201801

 このような、江戸開府の大事業を成し遂げ、現在の大東京の基礎を築いた、徳川家康公の
 業績を称えるとともに、遺徳を偲ぶべきモニュメントがありません。
  江戸消防の史実調査研究を事業目的としている社団法人 江戸消防記念会では、早くから
 このことに着目、銅像建立の必要性を論じてきたところであります。

「称えるとともに~ありません。」だそうです。
「史実調査研究を事業目的」で「銅像建立の必要性」を論じるそうです。
いやどうにも、これはすごい。


江戸東京博物館のサイトでレファレンス事例がありました。
一部抜粋します。

TOP>目的別利用案内>図書室のご利用>レファレンス事例集>徳川家康の銅像は都内に何体あるか。(2005年)

社団法人江戸消防記念会から当館に徳川家康像が寄贈されたのは1994年4月25日。
現在(2014年10月)都内にあるのはこの一体だけと言うことになります。
製作者は山下恒雄氏、像の高さは3.7メートル(台座からの高さ7.76メートル)、重量30トン。
台座の亀について正式な説明書きはありませんが、水の都としての江戸を表現しているとも言われています。
もっとも、昔から亀を土台にする像は多く見られます。
この亀の形をした動物を贔屓(ひいき)と言い、元々川の神の名であって、亀の形をとってこの世に現れると言われています。
この幻獣は石碑にかたどられ、「不動」の象徴とされているのです。


へぇー、なるほど。
あれは亀ではなく、幻獣なのですか。
そしてこれが、都内唯一の徳川家康像なのですか。


いやーすごい。これはすごい。
銅像も碑文も説明文も、ここまでのものは、初めて見ました。

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2018年1月 5日 (金)

歩いてきました「柴又帝釈天」

2018年1月4日(木)です。
毎年恒例の初詣、葛飾柴又帝釈天です。

柴又駅前の広場です。
1999年に設置された、振り返る寅さんの姿の「フーテンの寅」像。
その視線の先に新しく作られたのが「見送るさくら」像。
2017年3月25日に除幕式があったそうです。
201801041_01

以下、土台の文章を全文転記します。


―― ある別れ

 さくらは失恋して旅に出る寅を駅まで
見送ることにする
「いいんだよ、忙しいんだろお前」と
言いながらもその思いやりが
みにしみるほど寅は傷ついていた
 駅前でさくらは立ち止まる
「それじゃお兄ちゃん身体に気をつけてね」
「あヽ」と無造作にうなずいて駅舎に
向かう寅の足がふと止まりふり返る
「おい」
「なあに」
「満男に一生懸命勉強しろと言っとけよ」
「うん、わかった」
乱暴な口調で言いすててスタスタと
改札口に向かう寅
 さくらは踵を返し、秋の終わりを思わせる
冷たい風が吹く中を家路につく

 二〇一七年三月 山田洋次

寅さんの方の碑文は、昨年転記しています


帝釈天参道には、大きな看板。

祝 葛飾柴又
  国の「重要文化的景観」に選定へ

以下、ウィキペディアから抜粋です。
 重要文化的景観(じゅうようぶんかてきけいかん)は、
 日本の景観計画区域または景観地区内にある文化的景観であって、
 都道府県または市町村が保存措置を講じているもののうち、
 特に重要なものとして文化財保護法第134条第1項の規定に基づき
 国(文部科学大臣)が選定した文化財である。


いつものようにお参りをして、ご朱印を頂いて。
今年は、参道のお猿が目につきました。
申年が終わったばかりですが(^^;
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2017年11月 2日 (木)

歩いてきました「両国から日本橋薬研堀不動院」その3

両国橋を渡って、中央区日本橋です。
左に曲がると、薬研掘不動院の参道です。
とは言え、ただのビル街に柳の木とのぼりがあるだけ。
曲がり角は、創業明治10年の太田牛乳、二階は喫茶デルフリ村ですって。
時々ハイジが来てくれるかも(^^)
不動院自体は、ビルの屋上に建つような構造なのですね。
毎月28日が、縁日だそうです。
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まずはお参りをしてと。
縁日イベントの一環ですね、干支のお守りも頂きました。
ご朱印も頂いてと。
駐車場の裏に「遍路大師」の像。
弘法大師が全国各地を行脚した姿。
その両脇にも石碑が。
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右側の石碑は「講談発祥記念之碑」。
 由来の記

 元禄の昔、赤松清左衛門は浅草見附辺の町辻で
太平記を講じ、江戸講釈の発祥となった。これが
後に「太平記講釈場」に発展して長く庶民に親
しまれ、安政年間、「太平記場起原之碑」が建て
られた。この碑はその後、当不動院境内に移され、
大正十二年の関東大震災まで名物となっていた。
 この度、 当不動院と講談協会との因縁により、
真言宗宗祖弘法大師一千百五十年御遠忌を記念し、
相はかって茲に新たに建碑をなすものである。

 大僧正 高橋隆天撰書

 弘法大師一千百五十年御遠忌記念
  大本山川崎大師平間寺
 昭和五十九年秋吉祥  東京別院薬研堀不動院
   講談協会 建之

講談発祥の資料提供 日本大学国文学部教授
   民俗芸能研究家 永井啓夫氏
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左側は「順天堂発祥の地」。
順天堂発祥之地
 天保九年(西暦一八三八年)
 順天堂始祖佐藤泰然この地に
 和蘭医学塾を開く

 昭和五十七年四月十日
  学校法人 順天堂 建之
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小雨の中、縁日のイベントとして、人力車と駕籠も登場です。
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画像はないのですが。
2時からは、本堂で講談の会です。
なんと、本堂で行われます。
出演は、一龍齋貞友さん。
声優としても有名な方。例えばこんな作品です。
 ちびまる子ちゃん おかあさん
 忍たま乱太郎 しんべヱ
 クレヨンしんちゃん マサオくん
演題は「木津勘助」。
約45分、すぐそばでたっぷりと聞かせて頂きました。
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チンドン屋さんも繰り出して。
子どもたちも楽しそう。
近くにあった小さな本屋さんで、オミヤゲに文庫本。
萩原浩「花のさくら通り」。
先日始まったテレビの新番組「ユニバーサル広告社」の原作です。
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1.9km 22分のところ、滞在時間4時間以上。
東京の下町は、深いですね~(^^)

その後、新宿に移動し、本日の歩行は約14,000歩。
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2017年10月 5日 (木)

Breva750で、照葉峡~金精峠~日光いろは坂~杉並木 その3

最後は「女人堂」です。
ステンレス製の立て札がありました。
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日光市指定文化財

 女人堂 にょにんどう

種別 有形民俗文化財(信仰)
員数 一棟
規模 桁行 3.363m
   梁間 3,454m
   軒高 2,666m
   棟高 3,757m
   建坪 13.3m2
構造 木造切妻作り屋根目板打鉄板葺
建築年代 江戸時代(現在の建物 対象三年七月再建)

 男体山は二荒山神社の鎮まる山で神聖なところと信仰されていたため、牛馬はその
地名が示すように馬返しまでで返され、いろは坂への乗り入れが禁じられた。また、
女性も巫女石の伝承があるようにいろは坂を登ることが禁じられ、馬返しの先の深沢
まで行くことが許され、そこに女人堂を建て男体山を遥拝したと伝えられ、元々は門
であったとも云われている。
 古い信仰文化を示す貴重な遺跡である。

 昭和五十八年七月三十日指定
                               日光市教育委員会

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ウィキペディアによりますと。
男体山が女人禁制牛馬禁制だったのは、明治時代初期まで。
今の「第一いろは坂」の元になる道が作られたのは、大正時代。
ということは。
女人禁制の頃は、まだ「いろは坂」とは呼ばれていなかったのでしょう。
としますと「いろは坂を登ることが禁じられ」は、どうかと思いますが。

第二いろは坂が作られ、上り下りの一方通行になったのが1965年。
その時に合計48のカーブで「いろは坂」と名付けられたのだと思っていたのですが。
それ以前から、そう呼ばれていたのでしょうか?
もしかすると狭い道のつづれ折りで、今の「第一いろは坂」だけで、
カーブが48あったのかも知れません。



その後、日光市内を抜けて今市まで。
最後の目的地、国道119号沿いの杉並木の中を通ります。
クルマでは何度も通っていますが、バイクでは今回が初めて。

「昼なお暗き杉の小径」おっと、これは場所が違いました。

杉の根を保護するため「ポカラ工法」が使われているそうです。
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畑土や畜産堆肥を詰めた中空コンクリート(ポカラ)を埋設し、
道路面と並木敷の高さを同じにすることにより樹根の生育領域を拡大する工法。

というわけで。
関越道の水上インターから、日光宇都宮道路の今市インターまで。
約150㎞、見どころいろいろ、楽しんできました。
自宅までは、高速道路で全体で400kmほど。
以前も一度書きましたが、快走率30%以上の、良い感じのルートです。

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2017年10月 3日 (火)

Breva750で、照葉峡~金精峠~日光いろは坂~杉並木 その2

2017年9月30日(土)の続きです。

目的地はいろは坂、と言っても。
別にダウンヒルを攻めたいわけではありません。
昔から気になっていた、途中のポイントに寄ってみます。
クルマでは途中で停車は無理ですが、二輪車なら大丈夫。



まずは「中の茶屋」です。
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左側の東屋は、特になにもない建物だけでした。
右側の少し奥に、石碑がふたつありました。
白い方は結構古く、黒い方はごく最近のもの。

黒い方は、鮮明に文字が読めました。
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・表面
 中の茶屋石標
 構造 御影石造標
 刻銘
  明治天皇中茶屋御野立所
 史蹟名勝天然記念物保存法に
 依り史蹟として
 昭和十四年九月文部大臣指定
 昭和十五年十月建設
・裏面
 中の茶屋石標案内板改修工事
  平成二十六十月建立
     日光二荒山神社
      宮司 吉田健彦
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へぇー。
明治天皇が、ここで野点をしたのですか。
白い方が昭和15年に建てられたと。
それが老朽化して、平成26年に新しい石碑を追加したと。

「史蹟名勝天然記念物保存法」とありますが、、、
「史蹟名勝天然紀念物保存法」が正しいようです(^^;
1950年に廃止され、文化財保護法に受け継がれたそうです。



次に、壁面にレリーフのある謎のスペース。
20170930_07
狭いですが、一応展望スペースなのでしょう。
全体として結構傷んでいます。
クルマで停められそうですが、ちょっとねぇ。
まず、レリーフです。
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日光有料道道路完成記念
 延長 6080米
 有効幅員 6米
  着工 昭和廾八年一月十日
  竣功 昭和廾九年九月二十日
   昭和卅年十月一日
日光市いろは坂完成記念碑建設委員会建之

 日光電気精銅所制作

元栃木県知事 小平重吉氏
 寿像制作者 藤野舜正 
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ネットの漢字辞典でチェック。

「廿」音読み「ジュウ」、訓読み「にじゅう」
人名用漢字。JIS X 0213第一水準。
「卅」は、音読み「ソウ」、訓読み「さんじゅう」
常用漢字ではない。JIS X 0213第二水準。
よく似た「廾」は、音読み「キョウ」
意味は、ささげる。両手で捧げ持つ。こまぬく。
JIS第2水準。
「寿像」とは「生前に作っておくその人の像」ですって。

石碑もありました。
この場所はもう、神社の境内なのですね。
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二荒山神社境内
 右 般若滝
 左 方等滝
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小さく滝も見えます。
国土交通省の説明パネルもありました。
方等の滝の上は、登録有形文化財「方等上流砂防堰堤」。
20170930_10
 精緻な石積の外観と,周囲に回復された緑の中に映える水流が,
 いろは坂からの俯瞰景に彩りを添えている。
普通は見えませんけどね(^^;

手間がかかって進みません。
もう一か所あるのですが、続きは後ほど。

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2017年6月 8日 (木)

Breva750で「海野宿~無言館~別所温泉~地蔵峠」その4

2017年6月3日(土)の続きです。

私の好きな「地蔵峠」です。
ウォークで何度か通り、大いに気に入って、Breva750でも来ています。

 麓から峠の先の鹿沢温泉までの区間に、百体の観音様がいます。
 江戸末期から明治初期にかけて、湯治に行く人の目印として置かれたそうです。

全部の観音様で停まる訳にも行きません。
横目で眺めながら走るだけでも、楽しいです。
20170603_08

以前は反対側が工事中でしたが、キレイに完成していました。

鹿沢温泉の紅葉館の前には「雪山賛歌」の石碑。
有名な歌は、ここで作られたそうです。
20170603_09

碑文

 雪山讃歌
     西堀栄三郎

 雪よ岩よ われらが宿り
  俺たちゃ 町には
   住めない からに

 山よ さよなら
  ごきげん よろしゅう
   また来る時にも
    笑って おくれ

 雪山讃歌のおこり

 大正15年1月京都帝国大学の山岳部が鹿沢温泉でスキー合宿され
 た。合宿が終ってから後に第1回南極越冬隊長をされた西堀栄三
 郎氏、京大カラコラム遠征隊長となった四手井綱彦氏、アフガニ
 スタン遠征隊を勤めた酒戸弥二郎氏、並びに東大スキー部OB
 でのちにチャチャヌプリ遠征隊長をされた渡辺漸氏の4名にてスキ
 ーで新鹿沢へ下って宿泊されたが翌日天候が崩れ宿に閉じ込めら
 れた。一行は、退屈まぎれに「山岳部の歌」を作ろうと言う事に
 なり、曲をアメリカ民謡「いとしのクレメンタイン」としこれに
 合せて皆で上の句、下の句と持ち寄って作り上げたものであると
 言う。戦後京大山岳部員が当時の資料に記載されていたこの歌を
 寮歌に加え歌われ始めたのが急激に一般にも愛唱されるようにな
 ったが、作者不詳となっていたものを作詩の状況を知った、京大
 教授、桑原武夫氏が作詩は西堀だと著作権の登録をされたもので、
 この印税は同山岳部の活動の大きな資金源となっていると言う。
 「雪よ岩よ」で山を愛するものに親しまれているこの歌こそ粉雪
 舞う鹿沢温泉角間峠付近にぴったりで有り、その自然は今も昭和
 初期と全く変わっていないと思う。今回地元でこれを記念し「雪山
 讃歌の碑」として台字を西堀氏直筆にて鹿沢温泉に建立した。
  昭和57年4月
     群馬県吾妻郡嬬恋村


この説明文、少しは改行に気を遣えばよいのに・・・
そう思いながら眺めていたら。
ブドドド、、、とキャブトンマフラーのサウンドが。
続きは後ほど。

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